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幸せの記憶 ー高遠城址の桜ー [日記]

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「あら〜っ、あの湖は何ていうの?」

辰野から諏訪へ向かう途中、有賀峠を越えて最後のヘアピンカーブの手前、300m程のストレートを駆け下りてくると、13Bを積んだRX-8のフロントガラス越しに見えたのは満面に水を湛えた諏訪湖だった。

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「あれは諏訪湖。天竜川の水源だよ。」

まるで初めて見た景色であるかのように興奮している母親にそう言うと
「諏訪湖って……え〜と、長野でしょ? ずいぶん遠くまで来ちゃったのね。」
「来ちゃったのねって、今日は朝早くから出てきたからこれから帰るんだよ。」
「あら、せっかく来たのにもう帰っちゃうの?」
「“もう”って、今日は高遠で桜見て、奈良井でソバを食べてから……」
と言いかけたところで、心臓の鼓動が急に早くなった。

もしかして、さっきまでの出来事を忘れてしまったとか!?

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この6月で八十四になる母親は歳相応にボケはじめているようで、多少なりとも物覚えが悪くなっていて、同じ話題を何度も繰り返したり、すでに高校2年生の孫のことを「来年高校受験で大変ね」と言ってみたり、以前よりも昔の話ばかりするようになったりしていたことは確か。

そうはいってもついさっきまで、そう、有賀峠を越えるまでは
「今日は本当に楽しかったわぁ。」
「高遠の桜きれいだったわねぇ。一生忘れられないわ。」
「奈良井って良い所ね。住んでみたいわ。」
などと言っていたはずなのに、諏訪湖を見た途端に忘れてしまったのか?

「今日はね、朝5時に所沢を出発して、高遠の桜を見たんだよ。」
「それから、午後は奈良井宿に行ってソバを食べて、少し歩いたんだよ。」

「あら、そう……でも、どうして覚えていないのかしら。」
「昨夜は木曽の民宿に泊まって、朝ゆっくり起きて……」
「今日はアナタの家に泊まるんでしょ?」

「オレの家ってモトスミ?それとも辰野?」
「あら、茅野じゃなかったの?」
「いやいや、茅野に住んでたのは25年位前ね。その後、中国に単身赴任でしょ?」
「あら、中国なの?」
「今は違うよ。辰野に単身赴任。」
「あらやだ、もう何が何だかわからないわ。」
「まぁ、いいじゃないの。今日は高遠で桜見て、奈良井でソバ食べたんだから。」
「そうなの? ここは長野じゃないの?」
そう言ったっきり、母親は黙り込んでしまった。

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茅野から原村を抜けて一直線に伸びる県道17号線の左手に連なる八ヶ岳を眺めながら小淵沢方面にRX-8を走らせると、韮崎から甲州街道(国道20号線)に出るころにはすっかり夜になり、さらに雨が降り出した。
カミさんに電話して今夜は母親を連れてモトスミに帰り、明日の朝、私が辰野に戻る時に所沢に送り届けることにすると、母親は久しぶりに孫に会えると大喜び。
ウチのカミさんは気さくな性格なので、母親も気兼ねすることがない。
大腿骨を骨折して以来、特に寒くなると手術したところが痛むのでモトスミ邸に来る回数は減ってしまったが、我が家に来ると和気藹々なので、調子が良くなると「また行きたいわぁ」と言っていた。

甲府昭和から中央道に乗って、調布ICへと向かう。

取り留めのない(しかも同じことを何度も繰り返す)母親の話に相槌を打っていると母親は突然「お兄ちゃん、ごめんね。アタシこのまま所沢に帰るわ。」と言い出した。

「え〜っ、今夜はモトスミに泊まることにしたじゃん!」
「お兄ちゃん、ごめんね。アタシ、なんだか胃が痛いのよ。」
いやいや、オレ、兄ちゃんじゃないし……と思いつつ心配になった。
「マジですか?ダイジョブ?」

「お兄ちゃん、ごめんね。アタシ◯◯ちゃん苦手なの。」と兄嫁の名前を口にした。
「◯◯ちゃんはね、アタシが骨折して入院した時に病院へ来たのよ。」
「その時ね、“お母さんとは一緒に暮らせませんから”って怖い顔して言うのよ。」
「だから、アタシはお兄ちゃんのところには行きたくないの。」

何度も「ごめんね。」を繰り返す母親に「いやいや、オレは兄ちゃんじゃないよ。」と今度は声に出してみた。
そして「今日はモトスミに行くんだよ。だから兄ちゃんも◯◯ちゃんもいないよ。」

「あら、アタシ今、“お兄ちゃん”って言った?」
しばらく考え込んでいた母親が夢から醒めたような口ぶりになった。

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不意に前方に並ぶテールライトや中央分離帯の向こうで断続的に光るヘッドライトが視界の中で滲んできた。
「生活がだらしない」とか「部屋が汚い」とか「オレが面倒見てやっているのに」と、一人暮らしの生活をいつも兄にガミガミ言われている母親なので、たまにはドライブに連れて行って楽しい思いをさせてあげようと思っていたのに、ほんの一瞬の、ちょっとした切っ掛けで、その楽しかった記憶が吹っ飛んでしまうなんて……
これが老化と言えばそれまでだが、何とも寂しいものだ。
しかも今、母親は嫌なことばかり思い出して胃が痛くなっている。

「とにかく、今夜は孫に会えるんだから、いいじゃないの。」
そう言っている自分の声が少し震えていた。


私は一刻も早くモトスミに着きたくて、RX-8のアクセルを踏み続けた。
明日の朝までに今日撮った写真をRAWから現像して、明日の朝一番で母親に見せたいと思った。
そして今日一日の幸せだった記憶を再構築させてあげたいと思った。
写真を見せることで、失いかけた記憶を取り戻す。
今の私にできることは、写真にできることはそれしかなかった。


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